昭和五十六年一月二十八日 朝の御理解


御理解第四十四節
 「狐狸でさえ神に祭られることを喜ぶというではないか人は万物の霊長なれば死したる後神に祭られ神になる事を楽しみに信心せよ」


 人間が万物の霊長としての自覚を持ち霊長としての値打ちをいよいよ高めてゆく、清めてゆく、改まってゆくという事によって霊長としての値打ち、いわゆる霊長の持つ神性、神の性しょうというものをいよいよ内容に頂き、それを表してゆく人間万物の霊長としてはこういう他ほかの者では表す事の出来ない信心のおかげというものを表す、お徳を表してゆくという霊長としての徳をいよいよ高めてゆくという事が信心なんです。それを過去の宗教等も説いて来ましたけれども、非常に難しく説いてまいりましてとても人間業では生身を持っておる人間ではとうてい出来そうにもないような厳めしいもの険しいものにしてきておった。それを教祖金光大神の教えを頂くと人間が人間らしゅう生きながら、いうならば霊長の徳を表し霊長としての値打ちを作っていける手立て、それが合楽理念だとこう思います。兎に角万物の霊長としてのという事は、人間が人間としてのという事なんです。
 だから人間が人間としての生き方いわゆる人間らしい生き方をいよいよ身につけていくという事なのであります。教祖様の御時代に西六の明神様と云われた女の先生ですけれども大変お徳を受けられた方がおられました。その方がまあだ十八位の時は始めて教祖様にお会いになられた一ばん初めに御参拝の時に教祖様が、西六の高橋富枝というその一少女に対してはじめてお参りして来た氏子を、向うのお広前の隅の方でお話しを頂いておられたのだそあですけれども、その高橋富枝という先生、あの方を呼ばれたらそこを何かこう〓わりながら飛んでみえたという話しが残っております。非常に霊徳の強い先生だったんです。そてここにお結界の前に出られたらあの「狐じぁろうか、狸じぁろうかと思うて参って来たけれども狐狸でなくてよかったの」とおっしゃったそうです。
 そして勿論ご自身もお話を聞きながらとてもとてもそんな思いであったかもしれない。教祖様がまあ図星をさされたわけです。「とても今日頂いたお話し、こういうお話しを狐狸で出ける事ではない」と云われたというお話しが残っておりますね。お話を聞きながらまあいうなら天地の道理をお説きになられたのじぁないでしょうか。狐狸のいうならば霊位でこういう高度な話しを出けなさる筈はないと云うてまあ一心に教祖の信心を頂かれて、それこそお結界の中でのすって差し向かいといわれる程のお徳を受けられたんです。
 教祖様と差し向かいに座られるという御神格。ですから西六のお広前へまいりますとお結界がここのように左にあるという事ですね。大変なお徳を受けられた方なんですけれども、昨日宮崎の佐田さんのおくさんから電話がかかってまいりました。稲垣さんの弟嫁にあたられます。非常に熱心な信心をされます。もう周囲に沢山な人が助かり又、毎日あっち、近所からお参りに来るというような、まあいうならお徳を積んでいかれておる方ですけれども、岐阜の方へ佐田さんのお姉さんが居られる。この方は信心はないけれども、おかげの泉やら合楽だよりやら送って信心の有難い事をいつも手紙に書き送ってやられるそうです。
 そして近所にも金光教の教会があるだろうから一ぺんお参りをなさいというて、いうてやったら、ほんのすぐ側にお教会があったと、と同時に近所にすぐそこの教会にお参りしておる方があったからその人につれていってもろうてお参りされたという事である。それで、どこに御神縁がおありになるのですかと尋ねられた時に、「私は御信心はございませんけれども、妹が宮崎の方で久留米の合楽という所にお参りをさせて頂いていつもこうして新聞とか御本とか送ってくれます」と、そしたら、その先生が、「大変大きなお教会だそうですけれども、なかなか違った事を云われるお教会だそうですね」と云われた。それで、その佐田さんの昨日の電話でですけれども、まあよい事悪い事も岐阜あたりまでも合楽のことは知れ渡っておるなど思いましたという事でございましたが、それでも私は信心はないですけれども、あちらから出ております、おかげの泉を読ませて頂いただけでおかげを頂きました。先達ってからも嫁が何か大変難しい試験を受けたんですけれども、女では私の方の娘だけが合格しました。
 そりぁ何も分らんから、意味は分らんでんよかけんで、兎に角これは一冊読んでから行きなさいち云うて、わけんわからんなり読んだだけでまいりましたけれども、兎に角読んで助かるほどしの教会ですと云われたら、そうですか、そんなら一ぺんそん御本ば見せて下さいと云われたそうですから合楽だよりやらおかげの泉やら何冊か持っていかれたそうです。そしたら先生が家にも二、三冊でよいから送って下さいと云われたという電話が昨日かかりました。同じお道の信心を頂いておりましても、なら合楽では違った事をいう、それこそ狐じぁろうか、狸じぁろうかというような思いをしておったけれども、おかげの泉を読ませて頂いたらたしかに人か助かる理念が説いてある。
 なるほどこの本ならば読んだだけで助かるはずだという所からまあそういう事になったという意味の事を佐田さんから昨日聞かせて頂いたんですけれども、結局だからまあ今日の御理解はそうじぁありませんよね、人間は万物の霊長だからその道理にあうた信心をせよという事が今日の御理解のシンですけれども、ここにまあ狐狸という言葉が出ておりますから教祖様と高橋富枝先生の話を聞いて頂きましたが、昨日佐田さんの所からこうて来た電話もそれこそ狐狸を使うておるような、お教会と云わんばかりの事を云われたという事でございますけれども、とても狐狸位な事でこういう人の助かるような事が云えたり書けたりするはずはないとまあそこの岐阜の先生は悟られたのじぁないでしょうかね。そこですここに御縁を頂く皆さんの場合であっても同じです。おかげさえ頂きぁどこでんよかといったようなものではなくてです。とてもとてもこういうお話しを普通人間の智慧力話しが上手だけで説けるものじぁない。
 しかも何十年間いうならばこの教典に基づいて毎日こうやって頂くがもうそれこそ毎日毎日教祖様御教えの広さ深さを説かれる。例えばこれは人間業などいうなら狐狸で説けるものではないという程しのすばらしい信心を教えて頂く所だという事を信じてお参りにならなきゃいけないと思うのですね。これはどこでも聞かれる話じゃない。成る程これを体得したら天地がバックと自分でも感じられるようなまあいうなら人間は万物の霊長であるから万物を覧て道理に合う信心とはこういう信心だと、その道理に合う信心というのをもうそれこそ水をかぶらんならなん、火の行、水の行せんならんといったような信心ではなくて、人間が人間らしゅう、いうなら霊長が霊長らしゅういうならば生きながらしかもそれを高めていこうという生き方。昨日御理解のあの蟹の横這いを思い出して下さい。あれは横這いではない、蟹横這いじゃない、あれが当たり前なんだと、人間が人間らしゅう生きるという事はそういう内容の中にある。それをいよいよ高めてゆく、それを私は海老の、蟹と海老のおしらせから感じたんですけれども霊長としての値打ちを作る事の為にいうならば修行をしなければならない。
 成る程生き神の芸というものは私共がこの世に出てくる時に同時に生神の値打ちを作ってこの世に出て来ておるんだけれども、それがいうなら霊長らしからん、いうならば我〓我欲でそれが汚され、よごされて生神とは似ても似つかぬ心の状態になっておる事を気付かせてもらうて、そこの日々の改まり、又は信心は本心の魂を磨くものと仰せられるさまざまな人間の立ちゆく事の為のいうならば修行と信心に求める、教えによって自分というものを見極めていくという生き方、それをはあこういう生き方になったら商売が繁盛するだろう、こういう生き方になったら今日のお話しからヒントを得たんだけれども、おかげが頂ける、お徳が頂けるだろうと頭で感じた事、分かった事を、それを実働の上に実際の生活の上に表していく事が修行だ。
 家業の行とはそれなんだ。家業の行、ただ仕事を一生懸命しとれば家業の行という事ではない。これが本当だというあり方の商売、これが本当だと思う在り方をシンにしての日々の働きというものがです、だんだん出けてくるようになるところに、いよいよ万物の霊長でなからなければ出けない仕事、万物の霊長じゃなからなければ感じられない思う事も出来ない、いうならば思いというものが心の中に有難く育っていく。万物の霊長としてのいよいよ値打ちをいうならば難しゅうではない容易う説きあかされておるのがいうなら合楽理念だというふうに思います。為には先ず合楽で教えられる教はただの教じゃない。とても狐狸で説けれるものではない、もう天地のシンにつながる事の出けれる、天地をバックとして感じれる生き方の出けれる手立てが説いてあるという事を皆さんが一人一人それを信じて私は合楽の御参拝であり合楽で頂く御教えでなからなきゃならんと思いますね。
    どうぞ